もうお代わりはいらない。

Hangin' With Haskin | I Won't Have Another | BloodHorse.com Blog Stable

馬名を変えたらいくらでも使い回しがきく内容なんですが、Haskinブログにしては短い印象があったので、無断で訳してみた。推敲なし。誤訳誤字脱字勘弁。このエントリに対するコメントも後でかいつまんで訳すかも。そしてReddamの返信も。あっちは長そうだが。

もしベートーベンが交響曲第四番の後で引退していたら、と想像してごらん。第五番や第九番はなかっただろう。

もしヘミングウェイが「日はまた昇る」の後で筆を折っていたらと想像してごらん。「戦場よさらば」や「誰が為に鐘は鳴る」や「老人と海」はなかっただろう。

偉大な出来事がI'll Have Another(以下IHA)を待ち受けていたかは誰もわからない。彼は今や日本に逃れ、再び出会うことはない。

土曜日のBetfairハリウッドパーク競馬場で、Kentucky DerbyとPreaknessの勝者は競馬とアメリカに別れを告げた。歴史上の彼の地位はもう未完の交響曲にすぎない。時期尚早な引退の陰で偉業が実現されないままとなった、ここ数年の二冠馬である、Smarty JonesやMajestic PrinceやAfleet AlexやCharismaticのようであり、Big BrownやPoint Givenほどではない。

正しいとか間違いとかはない。我々の知っている唯一の真実は、すべての血脈がチャンピオンの血統を引いている、きらびやかで一級でハンサムで勇気のある馬はもはやレースをしないだろうし、生まれ故郷を去るだろう。誰も、アメリカで彼の血統を継続させる価値があると考えないから。

Belmont S.と、IHAが日本に売られるという告知の間の2週間に起こったことについては我らは何もわからない。何人のアメリカの生産牧場がアプローチして、その2週間に貧弱なオファーをしたのか、我らは何もわからない。彼のけがが見つかったあとの数時間で彼の引退を決定したその思考過程について、我らは何もわからない。誰もが知っていることは、関係者自身の了解によって、屈腱炎と診断されたケガがあっても彼らは彼を走らせることはできたはずだ、ということである。馬を走らせることは賢い手立てではなかったとしても、それは人々が聞きたいことではなかった。

6/9のBelmontに押し寄せた人々は、三冠の3戦目から彼がスクラッチされたというハートブレイクなニュースに耐えねばならなかっただけでなく、ウィナーズサークル -多くの人がずっと違う条件のもとで彼を見ることを期待していた場所- のなかに行進する前の20分間、パドックの周りを完璧に元気よく歩いている彼を見なければならなかった。もちろん元気よく歩くことは彼のけがとは関係はないが、観客の大半にとって見識のすべてであった。

私は、Paul Reddamのことを数年来知っているし、馬主としてより友人として見なしているし、トップクラスの馬を見つけたり、トップクラスのレースを勝ったり、彼の馬の最善の利益になることをするという傾向を持つ、気品のあるガイとして知っている。彼は、彼の調教師であるDoug O'Neillに忠実であり、彼は無名のMario Gutierrezを43-1でRobert Lewis S.で波乱の勝利をしてからIHAに乗せ続けたという根拠から、明確に彼の騎手にも忠実である。

私の知っていることは、これはReddamにとって断腸の思いであり、心の穴ぼこであることだ、そしてけがの程度や、早い引退や馬の売却について決定に至ったイベントをじっくり考えるのにどんなよいこともしなかったということだ。土曜日の別れを囲む状況は悲しみとイライラの感覚を残した。特に堂々とした牡馬がハリウッドのパドックの周りを気取って歩くのを見て。Gutierrezが騎乗し群衆が励ましながら、IHAは馬場へと歩いた。彼の鹿毛の毛並は光沢のある赤銅のように輝いていた。彼はそれからウィナーズサークルに連れて行かれ、体を丸め筋肉の上にいた。最後の人が彼を見て、彼はつまさきで背伸びして飛び跳ね、彼の馬房に戻った。ほとんど、新たな競馬の旅や歴史的な三冠奪取の後で新たな冒険に乗り出そうとする馬のように見えた。これは、彼が向かおうとする、アメリカの競馬ファンが関心を持つには遠すぎる、どこかわからない場所に旅に出かけようとする引退馬の姿ではなかった。

日本人に対する敵意はあるべきではない。アメリカの生産者、つまり競馬業界の巨人たるBull Hancock、John GalbreathやC.V.Whitneyが欧州人から、今日のアメリカのサラブレッドの中核を形成すべく、PrincequilloNasrullahRibot、MahmoudやSea Birdをさらった半世紀前のようにしたことをしたまでだ。

土曜日の送別に関して、かつて我らはここにいた、つまり、どんよりと蒸し暑い午後、Smarty JonesPhiladelphia Parkでファンに別れを告げた2004年、類似した場面に耐えねばならなかった。あらゆる年代の子供たちは馬にさよならをいいながらサインを持ち上げていた。その馬は彼がギャロップするのをただ見るために、三冠レースの間に2回、Philly Park(Philadelphia PArk)に1万人近くの人々を連れてきた。彼が行ってしまうのを見るのと同じくらいタフなことに、少なくともSmartyは不朽の名声に挑戦して失敗した。彼の最も気高いパフォーマンスを出したにもかかわらず。IHAは決してそのチャンスを得られなかった。

現時点で、Santa Anita DerbyとPreaknessにおける彼の直線のバトルの記憶と、Kentucky DerbyとRobert Lewis S.での彼の追込一気は十分である。彼は我らにこれらの消せない記憶を残した。そして現代の競馬において、いつかは消えてしまうような、我らの前を通り過ぎる偉大さのあらゆるイメージには感謝すべきことだ。

IHAとSmary Jonesは共通して別のものをもっている。どちらもアメリカの生産者に拒否されたということだ。Smartyはチャンスを与えられた。一時的ではあるが。しかしアメリカの生産はインスタントな喜びと市場性が目的であり、じきに上級品質の牝馬は(Smartyのもとに)来るのをやめた。SmartyはThree Chimenys Farmで有名な観光アトラクションであって、毎日のように多くの群衆を引き寄せた。しかし即時のインパクトを作るのに失敗したとき、ロマンスは終わった。ステークス馬がいたにもかかわらず。失望し幻滅した、彼の馬主であるPat Chapmanは故郷PennsylvaniaにSmartyを買い戻し、昨秋、6ヶ月間ウルグアイシャトルした。IHAは不幸にも種牡馬として失敗する機会すら与えられなかった。

我らがIHAを見た最後は、馬場へ歩き去ったイメージである。起こりえなかった難局を残して。それがこのことをより困難にしたものである。Smarty Jonesが旅だったときに私が書いた言葉を繰り返したい:ついに、馬房に引き返す(IHAの)最後の一瞥は最終的には深い感謝と称賛の気持ちを引き起こしたが、悲しみと空虚な気持ちもあった。結局のところ、ヒーローたちは夕日の中に馬に乗って去ることになっている。歩き去るのではなく。

その午後遅くに、馬主がPaul ReddamでMario Gutierrezが乗ったQuiet OasisがG2のRoyal Heroine Mileを勝った。人生は続く(Life goes on)。