アメリカ競馬の薬物使用と禁止の歴史

改めて日付を確認すると1ヶ月前の記事だったが、Haskinセンセーの歴史の講義が興味深かったので訳してみた。
ここ数年の薬物規制に関してはエントリを起こそうと思ってはいるが、いろいろ複雑に入り組んでいるので、自分の気持ちがその気になるまで脚をタメている。その末脚は不発かもしれない。

なおHaskinの渾身のエントリであり、つまり長すぎて読めないレベルである。
あと裏は取ってないので間違った内容も含まれているかもしれない。誤訳も含めてそういうのがあったらすみません。

主要な出来事

17-18世紀 イギリス・フランスでコカインなどの興奮剤を馬に投与
19世紀末 アメリカで英仏舶来のエリクサーが流行
〜1930年頃 馬にヘロインが投与されていた
1931年8月 レースで1着になった馬に鎮静剤などを投与していたと厩務員が告白したが調教師が責任を取らされた。以後、調教師が全責任を持つルールを誕生させる。
1934年 最新の薬物検査技法(唾液検査)を研究するためにフロリダ州競馬委員会のメンバーをフランスへ派遣
1938年 尿検査の技法が研究される
1968年5月 ケンタッキーダービー1位入線のダンサーズイメージから禁止薬物(Butazolidan)が検出され失格に。
1970年12月 ケンタッキー州の巡回裁判所が証拠不十分としてダンサーズイメージを1着と認め馬主に賞金を再度支給するようにと判決
1972年4月 ケンタッキー州競馬委員会が訴え、控訴審で判決が覆る。
1972年6月 馬主の控訴が棄却され判決確定。
1974年3月 ケンタッキー州でButazolidanの使用を合法化(!)
1976年 複数の競馬関連団体により、管理された投薬では馬の故障率に影響ないというレポートを発表
1979年 禁止薬物Sublimazeの検出方法が発見される
1979年5月 米放送局CBSのドキュメンタリー 60ミニッツで競馬の薬物乱用が扇情的に放送される
1979年7月 NY州北部のFinger Lakes競馬場でレース前の薬物検査が開始される
2012年 ブリーダーズカップの2歳馬の競走についてレース当日の薬物投与を禁止し、2013年は全BCレースについて禁止

全訳

The History of Drugs in America(Hangin' With Haskin)

薬物とともに競馬をやっている。そして競馬がかつてのように干し草、オート麦、水だけであることを望んでいる。さて、私たちは誰かを幻滅させることを嫌うが、しかしアメリカは決してかつてのようにはならなかった。

草創期からアメリカでの競馬は薬物に悩まされてきた。その薬物のほとんどは過去数年間に受け取ったすべての見出したよりかなり影響を及ぼすものだった。

私たちが今経験している、すべての薬物政策の矛盾はスポーツにとって目新しいものではない。レース当日の薬物規制が大きな変革を経験しようとしているので、遡ってそのルーツを見るにはよい機会である。

1960年代の純潔は乱暴にも1968年に破壊された。アメリカが自身、薬物ルネッサンスを経験していたのと同じ頃。我々はまだ主要なニューヨークのタブロイド紙で大きな太字の見出しを見ることができる - "ダービーの勝者は薬漬け。"

厩舎言葉のひとつとなりスポーツ界全体を揺るがした「Butazolidan」という名前で市販されているphenylbutazoneと呼ばれる鎮痛剤は当時あまり知られていなかった。薬物を扱うときの多くの矛盾の嚆矢となった。

1968年5月4日に、ダンサーズイメージ*(Dancer's Image)はカルメットファームのフォワードパスを破って、ケンタッキーダービーで1着でゴールした。2日後に、化学者ケネス・スミスはチャーチルダウンズ競馬場の裁決委員に、勝ち馬から採取したレース後の尿サンプルからButazolidanの陽性反応が出たことを報告した。

5月7日、チャーチルダウンズ競馬場の職員は調査結果を発表し、公聴会の三日後にダンサーズイメージは失格とされ賞金の再分配が命じられた。その牡馬の所有者ピーター・フラーは1968年後半に判決を不服として控訴したが、ケンタッキー州競馬委員会によって支持された。フラーは、フランクリン巡回裁判所に控訴し、判事ヘンリーメグスはButazolidanの存在を証明する実質的証拠がなかったことを保持して、フラーに有利な判決を下した。

カルメットのオーナであるユージン・マーキー夫人からの圧力の下で、ケンタッキー州競馬委員会は、1972年4月に委員​​会に有利な判決を下したケンタッキー州控訴裁判所に判決を不服として控訴した。その年の6月に、再審理の申立てを拒否された後、フラーはしぶしぶ賞金の返金をしてもらう不服申立てをあきらめた。1年後、裁判所がダンサーズイメージをダービーの公式の勝ち馬と認めるようにとの彼の不服申立てが裁判所により却下されたとき、フラーは彼の最後の戦いに敗れた。

5年間の法廷闘争と25万ドルの弁護士費用の末、フラーはついに戦いをあきらめた。1年にも満たない後で、1974年3月にケンタッキー州競馬委員会はButazolidanを合法化した。

1975年4月までにButazolidan、diuretic、furosemide(Lasixという商標名で知られる)は12の州で合法になった。 Butazolidanは1946年にスイスの研究室で最初に合成され、最終的に1957年カンザスシティのJensen-Salsbery研究所で生成された。1975年4月14日、DRFの東部版にはガルフストリーム競馬場で、 "Bute"と"Lasix"で競馬する馬の名前がリストされ始めた。数日後、それらの薬物がPennsylvaniaとMarylandで合法化されたとき、Keystone競馬場とPimlico競馬場が追加された。

薬物使用の管理を実際に可能にした最初の州はCaliforniaだった。1970年10月、NebraskaとColoradoでのみ合法だったButazonidanは、3人委員会がButeの使用限度量を可決したが、馬がレースする日を含まず、使用は州の獣医により承認されなければならないこと、必要とされる日常的な獣医師のリストを示さなければならないことを規定ししていた。

ButeとLasixの使用がより顕著になるにつれ、出走頭数、故障、フォームの取消についての統計レポートが増加したが決定的ではなかった。競馬組織NASRC、California州とColorado州の競馬委員会に対するVeterinary-Chemist Advisory Committeeによる3つの主要なレポートは、管理された投薬プログラムは馬の通常の故障率に影響しないという結論に達した。1976年に、カリフォルニア州委員会は、アメリカ動物愛護協会の承認を受けた。

しかしそのことは動物虐待防止協会からの激しい抗議を止めなかった。彼らはButazolidanは禁止薬物のマスキング剤(禁止薬物を隠ぺいするための薬)であると主張していた。その主張はLasixにも適用された。

ButeとLasixも故障の増加のために非難を受けた。ベテラン騎手ハーブ・イノホサは1978年6月のホースメンズジャーナルに以下のことを引用された。「わざと大げさに倒れた(サッカーで反則を取るためにこける時の表現)馬が故障したときに彼らは明らかに何の感情も持っていない。今重要なことは、競馬番組を埋めることであり、疑問を口にすることではないようだった。 」

Jockey's GuildのマネージングディレクターNick Jemasは、その同じ問題を引き合いに出し、「レポートから、かつてよりも深刻なタイプのけがによる故障が増えているように見える」と。しかしJemasは真犯人がより強い薬物(methodoneやxylocaineやreserpineやdilaudidや主要な容疑者であるSublimazeのような)であったとき、ButazolidanやLasixを非難することが間違いであるという信念を持っていた。

Fentanylとして人間に販売されているSublimazeは麻薬鎮痛薬グループの低用量かつ治療効果の高い薬であった。それは即効性で作用時間の短い睡眠薬として説明されていた。Cornell大学の毒物学の助教授で薬物検査プログラムの長であったDr. George Maylinは、Sublimazeを馬が「足を持っていることがわからなくなる」という幸福な感覚を馬に与える薬物として説明した。

最終的に1979年にSublimazeの検査方法が発見されました。しかし、すぐ後に、Stadolという新しい薬が浮上した。市場化のたった数か月後、StadolはAqueductで1着となったQuill Princeから検出された。その馬の調教師、Pete Ferriolaは45日の停止になった。より多くの薬は検査なしに現れ続けた。

1979年5月13日、競馬は大きな打撃を受けた。今年とまったく同じ方法で。「60ミニッツ」がAmericaにおける薬物乱用の恐ろしい絵(さまざまな競馬場の落馬のフィルムも含む)を描いた番組を放送したとき。ショウは競馬関係者により扇情的ジャーナリズムであるとして批判されたが、見たものに強烈な影響を与えた

競馬はショウの統計を粉々に引き裂くことによって報復した。番組はこの国の競馬の80%は厳しい薬物の利点でそうしていたことをアメリカン人に信じさせた。しかし、1978年に全米で13.5万頭の馬がレースをし120万回以上出走したということをレポートすることを怠っていた。NASCRCからの統計は、たった303件しか主な薬物違反はなかった。平均すると3960走につき1つの違反ということになる。

NY州北部のFinger Lakes競馬場がレース前検査を導入したとき、薬物阻止の主要なブレイクスルーは1979年7月に起こった。それは毎日午前7:30に始まった。州が任命した獣医が鑑定人と同行しその日のレースに登録した馬から血液サンプルを抽出しながら厩舎エリアを通過した。その最初の使用後わずか10日、最初の馬Reficanという5歳のセン馬が血液から異物があることが検出され、裁決委員によりスクラッチを命じられた。

ダンサーズイメージから60ミニッツまでの激動の10年にもかかわらず、アメリカの薬物の問題は過去数年と比べておとなしくなった。その当時は、競馬界の汚れた小さな秘密であり、たくさんな不快で、しかしラニアン風(デイモン・ラニアン)な特性をもたらした。

1930年代の唾液検査が到来する前は、薬物事件はほとんど気付かれなかったか、無視されていました。薬物に関連する事件のレポートが少ししか見つからなかったのはこの沈滞や無知によるものであった。よく知られているイギリス人の権威は、かつてアメリカ人がドーピングの練習を開始し、最終的には多くの英国人がそれを取り上げた場所である、大西洋を渡ってもたらされたと主張した。

アメリカ人は、しかし、実際には薬物はイギリスとフランスに起源があると主張している。このことはJ.B. Robertson教授により立証されている。彼はSporting Chronicleで、James I.の時代にまで遡って、鎮静薬や興奮剤のどちらも競馬馬に与えられた。彼は1750年に、ココアの植物の葉がペルーから欧州に到着し、コカイン、アルカロイドの一種、カフェインとともに、興奮剤として競馬馬に投与されたとも述べている。この発生は、1895年にアメリカ人が来る前に実施中であった。その日からずっと広く拡散していったが。

薬物は、ちょうどその頃に最初にアメリカに現れ、「スピードを支えるエイキシル剤(エリクサー)」という婉曲的な名前でおおっぴらに販売された。エリキシル剤は、その名前で公然といくつかの競馬出版物で宣伝され、非常に頻繁にセールスマンが自分に投与し馬の治療を指示した。セールスマンにすら秘密にされたこと、それは原料であった。誰もが知っていたことはそれが "水を渡って"からやって来て、それが米国に輸入される前にイギリスやフランスで効果を発揮していたということだった。調合法の作成者は、一般に膾炙されているところでは、それが英国に渡る前に、彼の母国で最初に試してみたフランス人の科学者であったとされる。エリキシル剤がアメリカに到達した後、その薬物または多くの模倣薬をもとに「気が狂う」馬についての多くの事件があり、じきに「麻薬の悪魔(dope evil)」として知られるようになった。

数年間を通して、馬のドーピングはより体系化され、科学的になり、競馬関係者は根絶することは人間のアルコール服用を排除するのと同じくらい困難であると認めた。

1930年までに、馬に投与する、より一般的な薬物のひとつがヘロインであった。大用量で致死するが、馬は常習的な性質により我慢することができた。バックストレッチ(厩舎エリア)でのヘロインの使用は多くの不快な人物、主に注射を望む中毒者を誘惑した。そのような人物のひとりが「Railroad Red」であった。馬にヘロインが与えられる前に、ヘロインの純度をテストするためのモルモット(guinea pig)としてサーブしながら厩舎へ向かった。数年間、調教師はRailroad Redのサービスを使用していた。Redは最終的にはルーチンに疲れてしまい、辞めた。厩舎の屋根裏に3年間、自身を閉じ込め薬物を即座に止めた(cold turkey)。彼は決して再びヘロイン(stuff)には手を出さなかったが、彼は代替品として酒に変え、飲んだくれになった。

1931年8月13日、サラトガで、スポーツに深刻な影響を持つことになる事件が起こった。Ladanaという名前のRacocas Stable所有の馬は、1番人気に押されようとしていたBurnt Hills ハンデを走る前にChloralと呼ばれる鎮静剤・睡眠剤を与えられた。厩務員はその行為を告白したが、調教師は馬のケアと安全のために「絶対的な責任」を適用され、その開催の残りの期間、どの馬も出走登録できないよう禁止された。その決定は、調教師が厩舎で起こったすべてのことに責任を持つという、絶対的な保険のルールを誕生させた。

1933年までに、アメリカでの薬物事件が新たな高みにエスカレートしていたが、薬物検査の分野で新しい時代が始まろうとしていた。1934年の初め、NASRCの開催で最初の大きなブレイクスルーが起きた。Joseph E. Widener(Hialeah競馬場の創設者でNY州の競馬の主要な大立者)が、フランスで使用されていた唾液検査の詳細な研究をするために、Florida Racing Commisionの科学者Charles E. Morganと獣医J. Garland Catlettをフランスに送るよう命令した。

フランスの検査手順の修正バージョンは、数人の調教師の停止処分という結果をだし、その冬Florida州で既に成功が証明されていた。すべての勝者が検査されたフランスとは異なり、Morganは興奮剤を使用している可能性のある行動を示した馬のサンプルだけを採取した。その年の5月8日に、NASRCは、唾液検査の使用を承認する決議を可決した。モーガンとキャトレット博士はその年の後半に、コカインの存在を検出する、より信頼性のある検査を含む新たな薬物検査技法を持ち帰るために、フランスに戻った。

1935年から1936年まで、調教師の停止処分は82から23件に下がった。1937年から1938年の冬の間、キャトレット博士は薬物検査手順をより強化するためにグレイハウンドの尿を検査し始めた。彼の検査は成功であると判明し、彼はニューヨーク州競馬委員会に彼の調査結果を発表した。彼らはその発見に大変感銘を受け、彼らは馬に対する実験を継続するために資金を提供した。

広範囲な調査と馬への実験 -薬物を投与されそれから観察され午前中に馬場で計時される - の後で、唾液検査は経口投与されたすべての場合で薬物の存在を検出したことが判明したが、皮下注射により投与された薬物についてはあまりうまくいかなかった。尿検査は、しかし、両方の投与方法でも薬物の存在を検出しただけでなく、投薬量が1グレイン(1グレイン=64.79891ミリグラム)の10分の1程度の僅かな場合でも検出した。

尿検査の一つの欠点は、サンプルは唾液検査でのように簡単に手に入れられないというところだ。通常、馬はクールダウン(cool out)した後の数分から1時間までに尿を渡すが、Hialeahでのひとつの例として、馬が勝ち196ドルを支払った例だが、アシスタントがその夜の9時まで馬房で待たされていたという。検査官が馬が排尿するために9時間以上待つ必要があったというケースもあった。

1941年、Hollywood Parkでたくさんのカフェイン陽性反応が明らかになったとき、尿検査は全米の大見出しとなった。その馬たちの馬主(最も著名だったのはMGMのヘッドLouis B. Mayer、Harry L. Warner、William Leavitt Brann)と同じくらいに大騒ぎを生み出したのは陽性という事自体ではなかった。その年の6月14日、California競馬委員会の議長Jerry Geislerは、カフェイン陽性のラッシュを調査すべく公聴会に9つの馬主グループの11人の馬主を召集した。一ヶ月後、委員会は5人の調教師を停止処分にし、馬主全員を無罪放免した。

「有罪」の集団は実際には厩務員たちであったということがのちに発覚した。厩務員たちは彼らの馬を尿検査のために数時間待つことを拒否していた。カップに排尿する過程を早めるために、カフェインのソースを作った。錠剤や注射液ではなく競馬場の台所でコーヒーポットで。

年月を重ね、clenbuterolやErythropoetin(より一般的にはEPOとして知られる)のような新しい名前が突然現れた。後者は、多くの酸素を運ぶ赤血球を増加させる合成ホルモンである。この薬物はパフォーマンスを向上させるものと断定されていて、またいくつかのケースで命にかかわるものと証明されていた。クレンブテロールは、呼吸を楽にさせ、筋肉量を増強するのに役立つ、充血除去剤(鼻炎薬)であり気管支拡張薬である。今年の初め、カリフォルニア州競馬委員会は、薬物がレース後の検査で現れることを防ぐために議論を開始した。現在、clenbuterolは尿中に5ナノグラム、血中に25ピノグラムまでを上限としてレース後の検査で現れることを許可している。

BCが2012年のイベントで2歳馬の競走でLasixの使用を禁止することと2013年にすべてのレース当日の薬物を禁止することを可決したことで、大きな変革が競馬界で待ち構えている。

ほとんど物事が変わらなかったことを示そう、1981年Illinois州は薬物を禁止することを発表した。Dave FeldmanというChicago HBPAの理事長は声明を発表し、「私が今まで耳にした競馬委員会が行った決定の中で最もひどい決定である。馬はチープになっていく、なぜなら馬は問題を抱えているからだ。ButeとLasicはこれらの問題のいくつかを軽減するのを手助けする。そのような投薬をしなかったら、数え切れないほど痛みを持った馬がIllinoisの競馬場でレースをすることになるだろう。特にシーズンの後半で。これは競馬のプレーヤーにとってカオスとなるだろう 」

競馬のレースと新たな薬物が市場に浸透する限り、薬物の論争が行われるだろう。薬物検査手順は長年にわたって著しく改善されているが、全米中で一貫性を持つ必要があり、第二および第三世代のタイプで生産されているデザイナードラッグ(合成麻薬)に遅れずに対応していく必要がある。

競馬はスポーツであるだけでなく、何千人もの人々に何千もの雇用を作り、巨額の売上を生み出す、ビジネスでもある。実用主義から倫理観を分離することは簡単ではなく、そのためそれぞれの競馬管轄区が正しい解決を探すことを困難にしている。経済は競馬の主要な部分ではあるが、意思決定者は、観客や競馬売上や政治的利益や経済的な支払い能力などの相反する動機の泥沼を超えて、何よりもましてサラブレッドなしでは無意味であることを悟るべきである。